ジゴクジジイのジゴックス

バカの頭の中を屁理屈と言葉のレトリックでしたためた虫下しコンテンツをご賞味あれ。WordPressで元々書いてた記事をインポートしたので所々バグってます。ごめんなさい。

ドラクエウォークの5コラボが怖かった。

ドラクエウォーク、2周年イベントの超ビッグ企画であるDQ5コラボが終わります。
そんなところに水を差すような駄文を書き綴っているわけですが、イベントが始まった時からずーっと感じていた違和感があります。

と、その前にDQWのナンバリングコラボの方式を整理しておきます。


大きく分けて3パターンありました。

 

A.勇者代替パターン(1,3,4)
その世界の勇者として周りに認識されるパターン。プレイヤー=勇者という、従来のDQのコンセプトに合ってる。

 

B.介入者パターン(2,7)
その世界にいる勇者とは別の存在として世界へ介入するパターン。
勇者は別で存在するのでシナリオに登場する。
勇者御一行の心がもらえがち。

 

そして
C.転生パターン(5)
別世界で既に人生のあったキャラへ無理やりウォーク主人公の人格をブチ込み、かつ記憶も同調させるパターン。
5が親から子、子から孫へと繋いでいく大河ドラマ的な継承をゲーム性にしているので、
やむをえずかなり強引な方法を採用したのか。

これにより、スラみちとの関係や、本編ではバックグラウンドがあった仲間パーティの扱い、
いずれ別れが来るであろう結婚相手や自分の子供などの落とし込みがすごい不安なんですよ。
夢でしたはやめてほしい。

不安っていうかずっとかりそめの人生をふわふわと歩かされている感じが、2のハーゴンが見せていた幻影っぽくもあるし、ムドーが見せてる夢の世界な感じもあって、そこはかとない居心地の悪さを感じてしまうのですよ。
※そもそもDQ5自体が大きなうねりのなかで翻弄されて人生の清濁を壮大なスケールで愉しむ作品だろというのはわかってますが。

 

パパスが死んだ時や結婚相手とのひと時、子どもへの感情など、その瞬間瞬間の感情は本物なのに、俯瞰した時に他人の人生に憑依させられてるウォーク主人公ってその間は誰の記憶どの人格なの?とかがロジカルに片付かない感じが怖い。
ソシャゲにそこまで追い求めるのはナンセンスだと思うが、つまらないとか嫌だとかそういう感情ではなく、「漠然と怖い」って感じなんですよね。

じゃあどうしたら良かったのか。

いっそモンスターへ転生パターンが良かったんじゃないかと思いました。

 

ルビスの精霊(運営)の声に導かれて
ウォークがたどり着いたのは5の世界。
けどなぜかその身体はキラーパンサーになっている。※スラミチはいつものスラミチのまま。

 

たまたま立ち寄った村で子供達に襲撃されてるところへ助けに入った5主人公と運命的に出会い行動を共にする。

で、パパスと死に別れてからは、ゲレゲレと名付けられたウォークがスラミチと孤独に彷徨うことになるけど、プレイヤーにはいつものイベント同様5主人公目線のストーリーを見せてあらすじを追わせるみたいな。

 

色々あってミルドラースを倒し、余韻に浸るゲレゲレと5主人公。
「お前がどこか遠くに行ってしまうようだ」と言う5主人公に踵を返し、元の世界に戻るウォークとスラミチ。
元の世界に戻ってきたウォークは、
ゲレゲレの時の経験でモンスターへの共感力が引き出された事により、「魔物マスター」としての素養が身につき、新たな職が解放される、みたいな。あとついでに5主人公一家との交流の中で「天空の家族」的な心Sも貰える。

そんなんだったらどうかなーとか思っていました。
まぁ、運営さんのことなので凡人が思いつかない素敵な着地の仕方をしてくれると信じています。

選挙速報を見ながら書くような感想文じゃなかった。