トイストーリー4が整理つかなかったので変わりに悟空に喋ってもらった(ネタバレあり)
オッス!オラ悟空。
トイストーリー4っちゅう映画を見たんだけどよ、オラ難しい事わかんねぇから「整理がつかない。ポジにもネガにも」って感じでさ、ずっと映画の最中も、映画見終わった今も3のことばっか考えてんだ!
トイストーリーの世界ではおもちゃ達はみんな子供達に遊ばれる為に作られてんだろ?
だから遊んでもらう事を最上の幸せとし、ミッションとして生きているってことだよな。
だけんど、不幸にも心無い人間や、人間の成長プロセスによって起きてしまう事象に納得がいかず、離反してしまったおもちゃ達が「生命体としての幸せ」を優先してしまい、ウッディ達と対立していたよな。
この「生命体としての幸せ」と「おもちゃとしての幸せ」の二項対立が2と3の争点だったんじゃねえかなって思うんだ。
ヴィラン達(1のバカガキは除く)を見ると、
「生命体としての幸せ」を優先した時が、「おもちゃがおもちゃをやめる」時なのかな、と思うんだよ。
それでもおもちゃに生まれ、おもちゃを生きてく決断をしたウッディ達。
だから3でボニーに引き取られた時もオラ達は納得して幕引きができたんだ。
アンディの人生はオラ達の過ごした時間とリンクして、同じ年月を過ごしたからこそ、タメが効いてノスタルジーのソニックブームで心地よく打ちのめされることができたんだよな。
あん時はおっどれぇたぞ。
だからこそ3の「アンディによるおもちゃからの卒業=トイストーリーの俺たちからの卒業」という、物語の中だけでなく現実の時間軸も使った着地の仕方がいち作品として、いちサーガとして至高に美しかった為に伝説級の結末を迎えていた様に思うんだ。
4の制作発表があった時に
「そういえば昔中国で蛇に足を書いちゃってディスられたお役人の話があったなぁ」と思い出したんだ。
ピクサーがどういうつもりで4を作ったのか、今は仮説立つけど整理がつかねぇんだよな。
「おもちゃの幸せ」と「生命体としての幸せ」はどっちが正しいのか、というのは、
答えを求めようということ自体が烏滸がましいのかもしれないし、一生答えがでねぇのかもしんねえ。今度界王様に聞いてみようかな!
こっからはネタバレだぞ。
今回のキーになるのは心の声というワードなんだと思うんだ。
本来おもちゃが持っている「持ち主の子供への奉仕」ビジョンと共生する矛盾、いわば「生命体としての自我」の言い換え。これが心の声なんじゃねえか?
ボー・ピープは割と早い時期に自身のおもちゃ人生が終わる機会に直面し、元より持っていた「生命体としての自我」が発芽、増幅された。
すべてのおもちゃに人格がある様に、生命体としての自我の目覚めは遅かれ早かれ訪れるんだとよな。
バズもきっとトーキング機能ではない本当の心の声に気づく時が来るかもしれない。
ウッディはアンディの元にいた時からおもちゃ人生と生命体人生の矛盾を見ないようにしていたよな。
自分をゴミだと言って自ら自分を捨てるフォーキーにウッディはおもちゃのミッションを伝えるが、その時もきっと消化しきれない自己矛盾を見ないふりしていた様に見えんだ。
んだけどボー・ピープの生き方を見てその自己矛盾に向き合い、生命体としての幸せを探しにいくよな。
ウッディはガビーへ自分のトーキング機能を差し出した時に、持ち主がいるおもちゃを卒業する=迷子のおもちゃになり、あの世界でのおもちゃの幸せではなく生命体としての生き方、幸せを探すってことを決めていたんじゃないかと思うんだ。
この終わり方、まさかこれで終わり?とは思わなかったし、これ以上描くのは野暮だろうと思う。
一夜経って少しずつ自分の中で落とし込めてきたところで、オラの中にうごめくこのモヤモヤの正体が輪郭を帯びてきたぞ。
“明け透けに見えるディズニーサイドの価値観の押し付けに辟易とする感情。”
“「こんな俺らどーです?」感。”
“そもそもで4の生まれた理由にビジネス都合以上の理由が見えないことへの納得いかない感情。”
きっとこの辺りがモヤモヤの原因なんじゃねえかなと思ってるぞ。
4の主張、トイストーリーでやる意味ってあったの?っていう。
まぁ原作、アニメ終わっても商業的な理由でシリーズをずっと続けてるオラ達が偉そうに言えることじゃねえんだけどよ。ははっ
今でもオラの中の心の声が
「なぜ(4は)生まれてきたのだ」と問いかけてくるんだ。市村正親ボイスで。
そんな生命体の根源的存在意義を痛烈に問いかけてくる、ポケットモンスターミュウツーの逆襲エボリューション、7/12より全国ロードショー!!!
ぜってぇ見てくれよな!